三月五日、蟄虫啓戸、ジョギングする人が増えた日曜日
三月五日
三月五日から三月二十日頃までを言います。
春の暖かさを感じ、土の中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃です。
【蟄虫啓戸】
チッチュウケイコ
"土中で冬眠をしていた虫たちが、暖かい春の日ざしの下に出てき始める頃。
虫とは言うものの、冬眠から目覚め始めるすべての生き物のことを表している。"
すごもりむしとをひらくと読む。
ちょうど今日の午前中はぽかぽかと太陽が暖かく、生き物も動き出したくなる陽気でした。
日曜日でしたので、街ではランニングする人もたくさんいました。
寒さが苦手な人も、運動が恋しくなってくる季節ですね
もし、お茶会をするとすれば、小動物の絵が描かれているお茶碗やお水指はいかがでしょうか。
栄西と喫茶養生記
お茶と栄西
鎌倉時代初期の建久2年(1191)に僧の栄西禅師が宋から帰国しました。
栄西は臨済宗の開祖であり、2度の渡宋により、臨済禅を学び、帰国しました。
この時に茶の種子を持ち帰り、筑前(福岡)の背振山に植えたのが、日本の茶の栽培の起源だと言われてきました。最近では、奈良時代や平安時代から茶は飲まれていたことが分かっています。
栄西の功績
栄西の功績は、京都や鎌倉にお茶を広めるきっかけを作ったことにあります。
栄西は1202年に源頼家から土地を与えられ、京都に建仁寺を建立しました。
その後、高山寺の明恵上人に茶の種を贈ったことから、京都で茶の栽培が始まりました。
栄西と喫茶養生記
そして、日本最古の茶書『喫茶養生記』を書きました。
1211年、栄西が71歳の時に完成した『喫茶養生記」はもともと医学書として書かれていて、薬としてのお茶の効能を述べたものです。
この『喫茶養生記』は、鎌倉幕府の3代将軍源実朝に 献上したものとして知られています。
源実朝が二日酔いに悩まされていた時に、お茶を献じて、二日酔いを治らせたことから、武士の間で愛飲されるようになりました。
参考
大福茶
大福茶
関西では、古くから正月に「大福茶」を飲む習慣があるそうです。
大福茶とは、お茶に梅干しなどをいれたもので、正月のほか、結婚式などのおめでたい席でも出される縁起物として飲まれています。
最近は、関東でもお正月に売っていますね。
今年、私は一保堂さんの大福茶を飲みました。
梅は入っていませんでしたが、香ばしい玄米が入っていました。
大福茶の起源
この大福茶の起源は1000年以上もさかのぼります。
時は951年の春に京都で疫病が流行した際、村上天皇が六波羅蜜寺の空也上人に祈祷調伏をさせたにもかかわらず、なかなか収まりませんでした。
そこで空也上人は十一面観音像を安置した台座にお茶と梅干を積んで、京の市中に出、お茶に梅干しを入れて病に苦しむ人々に振る舞ったところ、疫病はおさまったのだ、という伝承が残されています。
六波羅蜜寺と大福茶
六波羅蜜寺では、空也上人の伝説にあやかって、今でも毎年、正月三が日に参拝客に大福茶を振る舞って、古の伝承を今に伝えています。
無病息災を願う風習ですね
お茶の歴史 古代〜平安時代
神農帝が解毒薬として利用した
お茶の歴史は伝承によると、紀元前2800年頃にさかのぼります。
中国の本草学の始祖といわれる神農帝が野草を研究している時に、解毒薬としてお茶を利用していました。
お茶の記録
世界最古のお茶としては紀元前59年頃の『瞳約』に記録が残されています。
お茶の専門書、『茶経』が記されたのは、西暦760年頃です。唐の陸羽がまとめました。
日本とお茶の出会い
弥生時代、飛鳥時代は日本はまだお茶との出会いはなく、平安時代の815年に嵯峨天皇が行幸の途中で滋賀県の梵釈寺に立ち寄った際、大僧都の永忠がお茶を献じたことが『日本後紀』に記されています。
永忠は奈良末期に唐に渡り、30年以上唐で過ごし、喫茶法を学んだとされる僧侶です。
奈良時代からお茶は日本に伝来していた
『日本後紀』の記録は平安時代のことですが、茶道具の存在や言い伝えから、奈良時代の後期にはお茶が伝来していたと考えられています。
奈良・平安時代に飲まれていたお茶は、「餅茶」といい、生葉を蒸して餅状に固めたもので、飲む時に必要な分だけ切り取って火で炙り、薬研で砕いて粉末にし、釜で煎じて飲むものです。
この餅茶が、日本に最初に渡来した茶だと考えられ、後に団茶も作られるようになります。
しかし、餅茶は匂いが強くて日本人の好みに合わず、その製茶技術は普及しませんでした。